「きみはいい子」
中脇 初枝
単行本: 318ページ
出版社: ポプラ社
言語 日本語
ISBN-10: 4591129381
ISBN-13: 978-4591129388
発売日: 2012/5/17
夕方五時までは
家に帰らせてもらえないこども。
娘に手を上げてしまう母親。
求めていた、たったひとつのもの――。
怖かったのも、
触れたかったのも、
おかあさんの手だった。
読みながら、震えた。
ものすごいことが書かれている。
震え、泣き、それでも確かな希望が胸に灯る。
人間を信じよう、という気持ちになる。
――宮下奈都(作家)
それぞれの家にそれぞれの事情がある。
それでもみんなこの町で、
いろんなものを抱えて生きている。
雨は降りつづいていた。
まるで世界中を覆うような雨の中で、
あたしたちはぬれもせず、ひとつの部屋に一緒にいた。
ホットケーキのにおいにつつまれて。
あたしたちは、小さな水たまりの中にいるのかもしれない。
泣くことを禁じられて育ったあたしが流した、涙の水たまり。(本文より)
<サンタさんの来ない家>
ぼくは新人教師の岡野。1年生をあずかったときも6月になったら学級崩壊になってしまった。翌年は4年生。夏休みが終わったいまも、どうもうまくいかない。そんなときに気になる生徒がいた。
給食を楽しみに学校へきている神田さん(男子)。どうも、ごはんを食べさせてもらえるのは夜だけのようだ。休みの日も学校に来て、一日中、うさぎ小屋の前にいる。
神田さんは、「ぼくが悪いから、おかあさんも、パパとはちがうおとうさんもぼくのことを怒る」という。「ぼくがわるいから、ぼくの家にはサンタさんが来ない」
ぼくはクラスのみんなに宿題を出すことにした。それは、家族の誰かに抱きしめてもらう、ということだ。だが、神田さんは・・・
<べっぴんさん>
はなちゃんママはやぼったい。景品のバッグなんかも平気でぶらさげて公園に来る。
わたしは、ママ友から、あやねちゃんママと呼ばれている。でもわたしは、あやねをいじめるのを自分では止められない。公園のわたしと、家にいるわたしは別人だ。そんなわたしをはなちゃんママは「べっぴんさん」と呼ぶ。
わたしのママはわたしを抱きしめてくれたことがない。よろこんでくれたのはテストで100点をとったときの1回だけだ。おみそしるをこぼしたときは18回たたかれた。コップを割ったときは21回。抱きしめてなんくれず、うかうかしているとたばこの火を押し付けられる。だから、わたしもあやねをたたく。あやねがおかした間違いの数だけたたく。髪の毛をつかんで放り投げる。
それが、はなちゃんママにばれてしまった。はなちゃんママは自分の幼いときのことを教えてくれた。自分も母親にいじめられていたこと。近所のおばあちゃんが、べっぴんさんとよんでくれるのがうれしかったこと。だから、自分もひとにべっぴんさんといってあげたい。
<うそつき>
ぼくが生まれ故郷で土地家屋調査士事務所を営業を始めて、もう15年。自営業なので自治会やPTAの役員などをまかされることが多い。
息子の優介は4月1日生まれだ。同学年で一番ちいさいということだ。優介が5年生の夏、転校して来た、だいちゃんと仲良くなった。それがしょっちゅう家に遊びにくるようになった。
6年生になって、優介は、だいちゃんはうそつきだと言い出した。
だいちゃんは、おかあさんが殺されて殺した人がまま母になってやってきて、今度はだいちゃんを殺そうとしてごはんを食べさせてくれないのだという。
だいちゃんの笑顔の裏にはなにがあるのだろう。
サッカーの試合を見に行ったり、海でバーベキューをしたりするうちに、だいちゃんはすっかりたのもしくなった。
さて、家内のミキは、卵の黄身がきらいでよくそれをぼくに押し付けてくる。ぼくも黄身は苦手だが、うそをついて、その黄身をたべてあげる。それはミキの母親から頼まれたことだった。
だいちゃんもうそをついて皆の心配をさせないようにしている。
優介はじゃんけんでいつも最初にパーをだすのだが、だいちゃんはときどきじゃんけんに負けて、優介のわがままにつきあってやってくれる。
そして中学校の入学通知が届いて、もうすぐ優介たちの旅立ちのときだ。
たとえ別れても、2度と逢わなくても、幸せなひとときがあった記憶がそれからの一生を支えてくれる。
<こんにちは、さようなら>
80をすぎた今になって、思い出すのはかあさまのこと。戦争中の学徒動員でキャラメルを作っていたこと。かあさまの銘仙をほどいてお手玉をつくったこと。
そんなわたしに通学途中の小学生がいつも、あいさつをしてくれる。
「こんにちは、さようなら」と礼儀正しい。
ある日、スーパーでお金を払ったつもりで、払わずに出て行ってしまったことがあって、それ以来、店員さんの目つきが気になって仕方がない。
雨が降った日、いつもあいさつをしてくれる小学生が、道にたたずんでいた。聞けば、おうちの鍵を無くして家に入れないのだという。「鍵をかしてください」「わたしの家の鍵ではあなたのおうちには入れないのよ。しばらく遊んで行きなさい」
男の子は櫻井弘也くんという。
そしてお手玉で遊ぼうとしたが、放り上げたお手玉はなぜか次のお手玉を手にする前に床に落ちてしまう。こんなに年を取ったのだ、と実感する。
連絡がついて、ひろやくんのおかあさんがやってきた。「すみません、この子は障碍があって。ご迷惑をおかけしませんでしたか」。そのひとはスーパーの店員さんで、わたしに冷たい視線を向けていたひとだった。
「いいえ、いい子ですよ。礼儀正しい優しい子です。いつもおかあさんをうらやましく思っていました」
戦争中、防空壕へ非難するのは高等女学校の生徒が先で、高等小学校の女子は間に合わずに焼け死んだことがあったことを思い出したりした。
みんな、そんなことを知りながら、生き延びるために、知らないふりをして生き延びて、そしてわたしはひとりぼっちになってしまったのだった。
ひろやくんはおかあさんにたずねられて言う。
「しあわせは、晩ごはんを食べておふろに入ってふとんに入っておかあさんにおやすみを言ってもらうときの気持ちです」
たたかれ、おとうさんに棄てられ、おかあさんに殺されそうになって、それでもひろやくんは仕合せの意味を知っていた。
<うばすて山>
妹の美和から電話で、母の入所の準備が整うまで、3日間だけ母を看てくれ、と頼まれる。
母は妹をかわいがり、わたしのことはいつもたたいていた。お風呂にはいって数を数え間違うと顔を沈めたりしたこともある。7はきらいな数字だった。そのころは6までかぞえて、7が出て来ないのでいつも顔をつけられていた。だから、7はラッキーセブンではなく、黒いイメージだ。8も、9もそうだった。
そんな母は、今は自分が誰かもわからない。文代だから「ふうちゃん」と呼ばねばならない。わたしのことは「かよちゃん」だが、娘だとはわからない。「みわちゃんの友達のかよちゃん」なのだ。それも、聞かれるたびにそう教えねばならない。
おしめをしていても、なにかの拍子におもらししてまわりを汚している。
少しコンビニに買い物に行っている間に、台所の流しに着ていた服を詰めて部屋を水浸しにしてしまった。汚れたものを脱いでお風呂に入ろうとしていたようだ。
ご飯はいつ食べたかも覚えていない。ご飯は、と聞かれたら、これから作ります、と答える。妹にそう教えられたのだ。
大阪の大学にはいって家から離れて以来、母のことは妹にまかせてきた。わたしは家から離れられる事でようやく自分を持つことができたのだ。そんなキャリアウーマンのわたしに比べて、妹は母とつきっきりで人生を過ごしてきた。
ようやく、老人施設への入所の準備がととのい、ふるさとの駅に向かった。なつかしい友人たちの顔も浮かんできたが、ここで、母を置き去りにすれば、という考えも浮かんできた。この電車がうばすて山になる。そう思って、思い切って母を残してホームに降り立った。だが、母は・・・
悲しい物語だ。
つらい事件が報道をにぎわしているが、報道されないところでもいろんな事件が起こっている。いや、事件とはいえない日常の中にも、こんなにつらい毎日を送っている子供たちがいる。
子供たちだけではない、大人たちだって、なにかを隠しながら、なにかを正したいと思いながら、悩みながら毎日を過ごしているのだ。
それが解決できるときが来るのだろうか。
この作品の中では、かすかな光が垣間見えるエンディングが救いになってはいるのだが、それがあまねくすべての人々に訪れることはあるのだろうか。
絆とか思いやりとか、おおげさな言葉でひとをつなぐのではなく、人を優しくほっとさせることができるのなら・・・
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